
映画『来る』は、その衝撃的な展開と謎に満ちた結末で、多くの観客に強烈な印象を残しました。
「来る 映画 琴子最後」と検索されたあなたは、特に物語の核心を担う最強の霊媒師・比嘉琴子の運命について、強い関心を抱いているのではないでしょうか。
本作のあらすじを追うと、琴子は死んだのか、それとも生きてるのか、その結末は非常に曖昧に描かれています。
原作との違いや、ラストシーンで象徴的に登場するオムライスのネタバレ解説を知ることで、物語への理解は一層深まるはずです。
また、なぜこの映画がひどいと評される一方で熱狂的なファンを持つのか、その意味わからない魅力や、観る人によっては気まずいと感じる人間の心の闇を描いたテーマ性にも迫ります。
この記事では、琴子のその後も含め、あなたの疑問に多角的な情報でお答えします。
💬 この作品は、ホラーの皮を被った、人間の醜さを描く壮絶な人間ドラマです。
人間の悪意や弱さを描く作品が好きな人には特におすすめですが、後味の悪さや胸糞展開が苦手な人には向きません。
作品情報
| 項目 | 詳細 |
|---|---|
| 劇場公開日 | 2018年12月7日 |
| 監督 | 中島哲也 |
| 上映時間 | 134分 |
映画『来る』の主なキャスト
- 岡田准一:野崎和浩 役 (オカルトライター)
- 妻夫木聡:田原秀樹 役 (怪異に狙われるイクメンパapa)
- 黒木華:田原香奈 役 (秀樹の妻)
- 小松菜奈:比嘉真琴 役 (キャバ嬢霊媒師)
- 松たか子:比嘉琴子 役 (真琴の姉で日本最強の霊媒師)
- 青木崇高:津田大吾 役 (秀樹の友人の民俗学者)
- 柴田理恵:逢坂セツ子 役 (タレント霊媒師)
- 仲野太賀:高梨重明 役 (秀樹の後輩社員)
- 志田愛珠:田原知紗 役 (秀樹と香奈の娘)
その他の出演者
- 伊集院光:スーパーマーケット店長 役
- 石田えり:田原澄江 役 (秀樹の母)
- 蜷川みほ:香奈の母 役
ふむふむ……「来る映画琴子最後」を追えば、最強霊媒師の安否は生死不明。だが手掛かりを繋げれば、真実の姿が浮かび上がるかもしれない……。
映画『来る』琴子の最後は?物語の概要と評価
- 映画『来る』のあらすじ【ネタバレあり】
- 意味わからないと言われる理由を解説
- ひどいという感想は本当か?その評価点
- 気まずい人間ドラマが恐怖の核心
- 謎の怪異「あれ」の正体とは?
- 映画『来る』のあらすじ【ネタバレあり】
映画『来る』のあらすじ【ネタバレあり】
映画『来る』の物語は、主に三人の視点人物を通して描かれる三部構成となっています。この構成によって、一つの家族が内側から崩壊していく様子が多角的に映し出されていきます。
第1部:田原秀樹の視点

物語は、幸せな家庭をSNSでアピールすることに心血を注ぐ「イクメン」田原秀樹(妻夫木聡)から始まります。
しかし、その完璧に見えた日常は、謎の訪問者をきっかけに怪異現象の続発によって崩れ始めます。
彼はオカルトライターの野崎(岡田准一)や霊媒師の真琴(小松菜奈)に助けを求めますが、事態は悪化の一途をたどるのでした。
最終的に秀樹は、最強の霊媒師・比嘉琴子(松たか子)を名乗る怪異「あれ」に電話で騙され、彼は無残な最期を遂げてしまいます。
第2部:田原香奈の視点

秀樹の死後、視点は妻の香奈(黒木華)へと移ります。
彼女が抱えていた夫への不満や育児ノイローゼ、そして秀樹の友人・津田(青木崇高)との不倫関係など、家庭の深い闇が明らかになります。
精神的に追い詰められた香奈は、娘の知紗(志田愛珠)に対して育児放棄に近い状態に陥ってしまいました。 この心の隙を「あれ」に突かれ、香奈もまた命を落とすことになります。
第3部:野崎和浩の視点

物語の最後は、オカルトライターの野崎が中心となります。
両親を失った知紗を保護した彼は、真琴の姉であり日本最強の霊媒師・比嘉琴子とともに、「あれ」との最終決戦に挑むことになりました。
琴子の呼びかけで日本中から霊能力者が集結し、壮絶なお祓いの儀式が始まります。
しかし、「あれ」の力は想像を絶するもので、多くの霊能力者が犠牲となる凄惨な戦いが繰り広げられるのです。
意味わからないと言われる理由を解説
映画『来る』が「意味わからない」と評される背景には、いくつかの明確な理由が存在します。
第一に、怪異「あれ」の正体や目的が最後まで具体的に説明されない点が挙げられます。
原作小説『ぼぎわんが、来る』では、その民俗学的な背景がある程度語られますが、映画では意図的に匿名化されています。
これにより、「あれ」は特定の妖怪というよりも、登場人物たちの心の弱さや嘘を映し出す、不定形で象徴的な存在として描かれました。
そのため、明確な答えを求める観客にとっては、消化不良に感じられる一因となっています。
第二に、ホラー、人間ドラマ、アクション、ブラックコメディといった多様なジャンルが混在していることも、物語を複雑にしています。
特に、壮絶な除霊シーンはホラーの枠を超えたスペクタクルとなっており、観る人によっては物語のトーンが掴みにくいと感じるかもしれません。
そして第三に、中島哲也監督特有の映像表現も理由の一つです。スタイリッシュで過剰とも言える演出は、従来のホラー映画が持つ静かな恐怖とは一線を画します。
この独特の作風が、一部の観客には難解で受け入れがたいものと映る場合があるのです。
ひどいという感想は本当か?その評価点
本作に対して「ひどい」という否定的な感想が見受けられる一方で、カルト的な人気を誇り、傑作として称賛する声も少なくありません。
このように評価が真っ二つに分かれることこそ、この映画の最大の特徴と言えます。
否定的な意見の多くは、前述の「意味わからない」と感じる点や、登場人物の誰にも感情移入できないことに起因します。
主要な登場人物は、自己愛の強い夫、精神的に不安定な妻、嫉妬深い友人など、欠点や醜さを抱えた人物として描かれました。
観客が共感できるヒーローやヒロインが存在しないため、物語に没入しにくいと感じる方がいるのは自然なことです。
一方、肯定的な評価の核心には、「本当に一番怖いのは人間である」というテーマ性への共感があります。
怪異そのものよりも、人間の見栄や嫉妬、無責任さといった心の闇が生々しく描かれる点に、本作ならではの恐怖と魅力を感じる観客も多いのです。
また、中島哲也監督による唯一無二の映像美や、豪華俳優陣の鬼気迫る演技、そして常識を覆すような壮大なクライマックスは、他に類を見ないエンターテイメントとして高く評価されています。
気まずい人間ドラマが恐怖の核心

映画『来る』がもたらす恐怖の本質は、超自然的な現象よりも、むしろ観る者の心をざわつかせる「気まずい」人間ドラマにあります。
物語の序盤で描かれる田原家の日常は、多くの人が現実で経験しうる、あるいは見聞きしたことのある不快感に満ちています。
例えば、イクメンを気取りながら実際は育児を妻に押し付ける秀樹の言動や、承認欲求のために更新されるSNSのキラキラした投稿。
それらの裏側にある夫婦間の冷え切った空気や、育児ノイローゼに追い詰められる香奈の姿は、非常にリアルです。
さらに、秀樹の友人である津田が、親友の仮面を被りながら香奈と不倫関係を持ち、人間の悪意と嫉妬の恐ろしさを浮き彫りにします。
これらの生々しい人間関係の描写は、観客に強烈なストレスや居心地の悪さを感じさせます。
しかし、それこそが監督の狙いであり、家庭内に存在する「嘘」や「空虚さ」といった負の感情が、怪異「あれ」を引き寄せる土壌となったことを示唆しているのです。
この映画では、幽霊よりも生きている人間の心の闇こそが、最も根源的な恐怖の対象として描かれています。
謎の怪異「あれ」の正体とは?

映画『来る』で田原家を襲う怪異は、劇中では一貫して「あれ」と呼ばれ、その正体は謎に包まれています。
原作小説のタイトルは『ぼぎわんが、来る』であり、「あれ」の正体が「ぼぎわん」という名の怪異であることは間違いありません。
原作における「ぼぎわん」は、三重県に伝わる妖怪とされ、子供を山に連れ去る存在として語られています。
その起源は、かつて行われていた「間引き」という風習の悲しい歴史と結びついています。
しかし、映画ではこの民俗学的な背景はほとんど省略され、「あれ」はより普遍的で象徴的な存在として再定義されました。
映画における「あれ」は、決まった姿を持ちません。標的となる人間の心の奥底にある恐怖や罪悪感を映し出し、その人が最も恐れる姿で現れます。
- 秀樹に対しては、幼い頃に行方不明になった少女の姿で近づきます。
- 香奈に対しては、彼女が憎悪していた虐待母の姿をとって現れました。
このように、「あれ」は外部からやってくる侵略者というよりも、人間の内なる闇や嘘に引き寄せられ、それを糧にして増幅する触媒のような存在です。
したがって、「あれ」の正体とは、登場人物たちがそれぞれ抱える「心の怪物」そのものであると解釈するのが、この映画を理解する上での鍵となります。
映画『来る』琴子の最後を徹底考察【ネタバレ】
- 比嘉琴子は死んだのか?安否を考察
- 琴子は生きてる?生存説の根拠を解説
- ラストのネタバレ!オムライスの意味とは
比嘉琴子は死んだのか?安否を考察

物語のクライマックスで繰り広げられる壮絶な除霊儀式と、その後の比嘉琴子の安否は、この映画で最も議論を呼ぶ謎の一つです。
琴子は「あれ」と直接対峙し、自らの力を解放します。その瞬間、マンションの部屋が大量の血のようなもので満たされ、窓ガラスが粉々に砕け散るなど、大規模な破壊が起こりました。
この描写から、琴子は「あれ」を道連れに、あるいは相打ちになって命を落としたのではないか、という解釈が成り立ちます。
彼女の最後の行動は、残された知紗を守るための自己犠牲であったと捉えることも可能です。
日本最強の霊媒師ですら打ち破れないほどの強大な怪異を前に、自らの命と引き換えに脅威を祓った、という見方は物語の結末として非常に劇的です。
映画が彼女のその後の姿を一切描かずに幕を閉じるため、「琴子は死んだ」という説は、多くの観客にとって説得力のあるものとなっています。
琴子は生きてる?生存説の根拠を解説

一方で、「比嘉琴子は生きている」という説もまた、有力な解釈として存在します。
その最大の根拠は、原作小説『ぼぎわんが、来る』での描写です。原作において、琴子は最終決戦を生き延び、その後も霊媒師として活動を続けています。
映画は多くの点で原作から改変されていますが、主要キャラクターの運命という根幹部分まで変更するとは考えにくい、という意見があります。
また、映画のクライマックスにおける彼女の行動を、自己犠牲ではなく「力の行使」と見ることもできます。
彼女は冷静に状況を判断し、野崎と真琴に知紗を託した後、最強の霊媒師として「あれ」との一騎打ちに臨みました。
最後の爆発的な現象は、彼女が死んだのではなく、持てる力の全てを解放して「あれ」を撃退した結果である、と解釈することも不自然ではありません。
映画が彼女の死を明確に描かなかったのは、むしろ生還を匂わせるための意図的な演出であった可能性も考えられます。
絶望的な状況の中で、最強の存在は生き残ったという希望を残す終わり方こそ、この物語にふさわしいと捉えることもできるのです。
ラストのネタバレ!オムライスの意味とは

血なまぐさい最終決戦の後、映画は非常に唐突かつ象徴的なシーンで幕を閉じます。
それは、野崎と真琴に保護された少女・知紗が、無邪気に「オムライスの国」の歌を歌いながら、その夢を見ているという場面です。
この不可解なラストシーンには、複数の解釈が存在します。
解釈1:トラウマの無害化
最も有力な解釈の一つは、オムライスが知紗の経験した恐怖のメタファーであるというものです。
オムライスにかけられる真っ赤なケチャップは、クライマックスで部屋を満たした大量の血を視覚的に連想させます。
言葉にできないほどの惨劇を目撃した知紗が、その恐ろしい記憶を、自分の好きな「オムライス」という無害なイメージに置き換えることで、精神的なバランスを保とうとしている、という不穏な解釈です。
解釈2:失われた家庭の象徴
オムライスは、日本の家庭において子供への愛情を象徴する料理の一つです。
両親からの十分な愛情を得られず、偽りの家庭で育った知紗にとって、この夢は彼女が渇望していた温かい家庭生活そのもの、すなわち「手に入らなかったもの」へのファンタジーであるとも考えられます。
解釈3:子供の無関心さ
大虐殺の後に続くあまりにも陽気な夢は、大人の世界の悲劇に対する子供の無邪気な残酷さや無関心さを象徴しているのかもしれません。
これは、彼女自身が「あれ」を引き寄せた原因となった、感情的な空虚さから未だ抜け出せていない可能性を示唆しています。
来る映画琴子の最後に関する謎まとめ
この記事で解説してきた、映画『来る』と比嘉琴子の最後に関する重要なポイントを以下にまとめます。
- 映画『来る』は視点が変わる三部構成で家族の崩壊を描く
- 物語のテーマは超自然的な恐怖より「本当に怖いのは人間」という点にある
- 怪異「あれ」は特定の姿を持たず人の心の弱さを映し出す鏡である
- 「意味わからない」という評価は曖昧な怪異の正体やジャンルの混在に起因する
- 「ひどい」と「傑作」で評価が分かれるのは中島哲也監督の作風とテーマ性による
- 比嘉琴子が最後どうなったか、映画では明確に描かれず生死不明
- クライマックスの壮絶な描写から「琴子は死んだ」という死亡説が存在する
- 一方で原作では生存しており、映画でも「琴子は生きてる」という説が有力視される
- ラストシーンの「オムライス」はトラウマの象徴や失われた家庭への渇望など複数の意味を持つ
- 琴子のその後は原作の「比嘉姉妹シリーズ」で詳しく描かれている
- 映画と原作ではクライマックスの規模や登場人物の運命に大きな違いがある
- 琴子の生死は、観客の解釈に委ねられる形で意図的に曖昧にされている
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